歴史

清水寺の歴史

清水寺の歴史について創建当時→平安時代→近世と大きく三つに分けて調べてみました。清水寺の歴史は現在の場所に建設されたころから1300年近くたっています。その歴史の中では戦乱の中にあったり多くの人から崇高されたりとその歴史は現代の清水寺の人気の礎となっているようです。

清水寺の創建

清水寺の創建当時の時代背景を読み取ってみよう。
一番近年にまとめられた書藤原明衡撰の『清水寺縁起』や、そのひとつ前に監修された『清水寺縁起絵巻』などでも紹介がなされている、『扶桑略記』、『今昔物語集』の延暦十七年に書かれたものにも清水寺の創建当時の歴史を伝えているおおまかな内容は以下の通りです。

宝亀9年(778年)、大和国興福寺の僧である賢心は、夢の中でお告げを聞く、それにより賢心は北へと向かうことを決心する。賢心のたどり着いた場所は今の清水寺の地である音羽山であった。
音羽山のところに金色の輝いている水流を見つけその水源を探し音羽山を歩いた、
たどり着いたそこには音羽山にて修行をおこなっている人物にであう、そこにいた人物とは行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者。その者は千手観音を念じ続けていた。

行叡居士は年齢200歳になるという修行者でその場にたどり着いた賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。

その人物が観音様の化身であったと悟った賢心は、行叡がその場に残していった霊木に行叡が念じ続けていた千手観音像を習い作り上げ安置した。その場所が現在の清水寺の始まりの場所とされている。

坂上田村麻呂それから2年後、鹿を捕えようとして山に入り込んだ坂上田村麻呂は、音羽山の山で修行をしていた賢心と出会う。
田村麻呂は妻の病気癒すためにと薬となる鹿の生き血を求めて音羽山へ入ったのだが、延鎮より殺生のむなしさを説かれ、観音像を祀るために自分の家を差出したのである。

さらにそれから数年後、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は征夷大将軍となっていた、若武者と老僧の後ろ盾を得ることのできた田村麻呂は戦に勝利、無事に京都の都に帰還している。
延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮と一緒に後の清水寺本堂の改装を始める、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造った。
以上の由来より、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願としている。

 

平安時代以降
延暦24年(805年)には日本の律令制のもとで太政官が管轄下の諸官庁・諸国衙へ発令した正式な公文書により坂上田村麻呂が寺地を治めることとなった、弘仁元年(810年)にその時の天皇である嵯峨天皇の、日本の天皇が発した法的効力のある命令を得て正式に認められた寺院となり、清水寺の最初の名前として「北観音寺」という寺の名前がつく。

平安時代中期の女流作家、清少納言により執筆されたと伝わる随筆である枕草子には清水寺の縁日のことが記されており、そのほかにも歴史的な著である源氏物語や今昔物語集にも清水寺のことが書かれていることからも昔から多くの信仰を集めていたことがうかがえる。

清水寺の、僧侶が集まり修行する清浄な場所の意味であり、後には寺院または寺院の主要建物群を意味する場所である伽藍は康平6年(1063年)から寛永6年(1629年)までの間に9回にわたる火事によって再建されていることが記録されている。
平安時代のころから長い間は興福寺が清水寺を納めていたその場所を境に南北に勢力争いをしていた延暦寺との争いに巻き込まれ、永万元年(1165年)には延暦寺の僧兵との争いの中で火を放たれその姿を消した。
現在見ることのできる本堂は寛永6年の焼失の後、寛永10年(1633年)、徳川家光により再建されたものである。

 

近代

大西良慶近代に入り、大正3年(1914年)には興福寺住職、中国創始の仏教の宗派の一つに属している法相宗の管長で当時の日本の長寿記録保持者としても有名であった北法相宗の僧である奈良県主神の大西良慶が清水寺の住職を務めることになった。

大西良慶という人物は北法相宗を開宗、初代管長となった人物である。

大西は昭和41年(1966年)に月2回の一般に広く北法相宗仏教文化を知ってもらうために講座を開始、昭和49年(1974年)には日本と中国の仏教でのつながりをさらに強くするために日中友好仏教協会を設立するなど、仏教を中心に国際交流、平和運動、文化活動など多くを巻き込んでいく。

大西は昭和58年(1983年)、満107歳で没するまでの期間を清水寺住職の職を全うし、清水寺の繁栄に活躍し尽力を尽くしたことから「清水寺の中興の祖」とされている。

関連人物

関連人物

さらに楽しむことのできる情報集